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会社概要

2015.12.11

社長のコラム Vol.1(1)

「印刷情報 2015年7月号」記事(一部)

社長のコラム第1回目は2015年7月に「印刷情報7月号」特集記事に
掲載されたインタビュー記事を3回に分けてお送りします。

企業経営に活きる異業種のキャリア
―外の世界で得た経営のベースとは (第一回)

◆会社の概略や事業展開について、ご説明ください。
日精ピーアールは、商業印刷を中心に事業展開しています。企画、デザインから印刷、製本まで自社内で一貫生産するワンストップ体制です。当社では商業印刷物が年々、減少していく中で会社として生き残りのため、個性力や差別化が必要と考えました。2007年に「環境対応」プラス「高精細」というキャッチフレーズを創り、自社のブランディング活動をスタートしました。  大きな転換としては「水なし印刷」の導入があります。現在、足立区の保木間に工場があり、2007年から順次、切り換えて水なし専門工場に転換を図りました。環境対応は、水なし印刷を中心に、NON- VOCインキを採用したり、工場の電力をバイオマス発電による自然エネルギーで調達したりといった施策を全ての工程で進めました。同時にFMスクリーンの導入など高精細印刷への移行を進めていきました。さらに超高精細へのチャンレジやカレイドインキの採用など、一層のブラッシュアップを図っております。  時代の変化の中で「紙」と「アート」と「電子媒体」の三つの視覚媒体で、時代に合ったメディアをご提案することを5年前から行っています。こうした形でお客様に対するサービス向上、付加価値向上に努めています。

損保会社から広告制作会社へ

◆中村社長は、3代目の経営者として活躍されていますが、
 異業種でどのような経験を積んできたのでしょうか。

当社は祖父が創業し、父と父の兄である叔父が経営していました。私には「自分が家業を継ぐ」という意識は当初は希薄でした。私は異業種では、二つの会社を経験しています。最初は損害保険会社を7年間、広告制作会社が3年間です。 就職時に父からは大手広告代理店を奨められていましたが、就職活動に取り組む中で、損保会社から内定をもらったわけです。保険や銀行は内定が出るのが、非常に早かったのです。自分の中で損保会社が向いているように感じられ、安定感があり給料も良かったことから勝手に決めてしまいました。今にして思えば、将来のことを父と膝詰で話したことはありませんでしたが、印刷会社の川上である広告代理店で働くことは、良い経験になるという父の親心だったと思います。 損保会社に入社し、最初の3年間は都内の支社で個人営業、さらに4年間、横浜で法人営業に取り組みました。私が入社した1997年、支社の隣にあった山一証券が倒産し、新入社員がお客様に頭を下げているのを見て、どんなに大きな会社でも倒産することはあると強く感じました。私の勤めていた会社も2度、合併を繰り返しています。そんな形で倒産や合併を非常に身近に体験していました。 仕事は基本的に保険の代理店に対して、販売の指導を行うことです。代理店は個人の場合もあれば、会社や銀行もあります。また損保と言いながら、生命保険のグループ会社も持っており、そちらの販売の仕事もしました。生保の仕事では、経営者の方が営業対象になることが多く、いろいろな話を聞くことができました。20代の会社員としては得難い経験だったと思います。  損保の営業で個人事業主の方や、法人であれば社長や銀行の支店長と幅広い方に接していく中で、自分の将来を考え家業に対する憧れが出てきて、広告制作会社に移りました。当初は5年ぐらい、将来を踏まえて経験を積もうと考えていましたが、3年間勤め日精ピーアールに入りました。広告制作会社では、イベントの企画から入ってデザイン、制作と印刷物の制作に関わり、今の仕事の下地ができました。

企業ミッションを明確にする

◆中村社長は、印刷業界に入って、まずどのように動かれたのですか。
私が日精ピーアールに入った年に、当社は製造の工程を変える変革期に入りました。取締役という形で入りましたが、営業をやりながら役員を務めました。創業者の息子という立場で、会社に営業的な成果をもたらさなければならないと感じており、最初の1年は精神的な重圧がありました。古くから勤めている社員の半分は前向きに、半分は懐疑的に見られているように感じ、それは意識していました。 勤めて1年半が過ぎて父の大病が発覚し、思った以上に早く完全な代替わりになりました。社長になってからは、父がやってきたことを深掘りしながら、新しい視点を持つような姿勢でやってきました。

◆社長になられて、明確な自社の「ミッション」を打ち出されました。
 これはどのようなお考えからですか。

父は、中小企業であっても組織としてしっかりやっていきたいという考え方を持っていました。そうした考えから父が日精ピーアール設立時に作った、クレド(NSPR社訓)がベースにありました(別掲)。それは日精ピーアールの社員としての基本的な考え方や経営方針といった全体的なものです。このクレドは、父が日精ピーアールという会社の中で想うことを何百と書き出し、4項目にまとめたものです。それをベースに私がミッションとして言語化しました。 ミッションは、われわれがやるべきこと、拘るべきことを言語化したものです。社員証の中にカード化し携帯してクレドとミッションを常に読めるようにしてあります。また毎朝の朝礼では、クレドを全員で唱和して、想いを一致させるようにしています。  ミッションについては、基本的なベースは変わらないが、時代の変化の中でやるべき使命は部分的に変化していくかと思います。クレドは精神的な基盤ですから、今後、日精ピーアールが何十年と続いていく中で変わることはないし、変えるつもりもありません。そうした位置づけになっています。 (続く

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